日本における死刑

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死刑
死刑

日本における死刑(にほんにおけるしけい)。

日本死刑法定刑のひとつとして位置づけている国家であり、その方法は絞首によると規定されている(刑法11条)。

コロナ禍が始まった2020年以降、死刑の執行は非常に稀なものとなっており、日本の死刑制度は事実上有名無実化している(後述)。

判決から執行まで[編集]

死刑判決の言い渡し[編集]

法定刑に死刑のある犯罪は以下の通りであり、裁判官は、裁判の経過や過去の判例(いわゆる永山基準など)などと照準して判決を下す。

※削除 大逆罪(73条)、利敵行為(83~86条)、尊属殺人(200条)

通常、刑事裁判ではほとんどの場合、主文を先に朗読した後に判決理由などの朗読が続くが、判決が死刑である場合には主文朗読が後回しにされることがほぼ通例となっている。このため、判決公判の冒頭に主文朗読がなされずにまず判決理由の説明が行われれば、その事実が「死刑の可能性が非常に高い」と裁判の当事者や報道機関等が判断する材料ともなっており、新聞社ホームページのいわゆるインターネットニュースとして「厳しい刑の可能性」などと打たれた記事が速報されることが多い。

ただし東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定117号事件)の1998年東京地裁判決については、開廷直後、例外的にいきなり死刑主文が言い渡された。当時の報道でもこの言い渡し方を例外と報じており、犯行の社会へ与えた影響の重大さ、社会の関心の高さを重く見た裁判所の意思と推測されている。
逆に、先に判決理由を述べた後、無期懲役を言い渡したケースもある。(筋弛緩剤点滴事件において仙台高等裁判所が下した控訴審判決。2006年3月22日)

死刑の量刑基準[編集]

公判のなかで被疑者が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪の擦り付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多く、1979年に発生した福岡病院長殺人事件では、殺害を実行した2人が院長1人を殺害したとされる公判中にお互いの罪をなすり付けあったのが死刑になった原因のひとつではないかとも言われている。保険金目的の殺人など営利目的の殺人に対しても厳しい判決が下されるケースが多い。

死刑もその他の刑罰と同様、罪刑法定主義に則りどの裁判官が担当しても同じ判決が出るように明快な基準が必要だと予てから法曹界で議論されてきた。実際これまで、その運用に若干のぶれはありながらも最高裁は概ね以下のような基準を示してきた。

  • 3人以上殺害→死刑
  • 2人殺害→殺害方法の残忍性、その後の死体損壊程度によっては死刑
  • 1人殺害→死刑にしない

運用は時代背景とともに変遷がある。戦後貧しい時期に頻発した強盗殺人や、1960年代以降の富裕層に対する誘拐事件では、誘拐殺人に1人から2人殺害にも死刑が宣告されるようになった。警察の統計によれば2000年代に入り、殺人件数(既遂)は減少傾向にあるが、厳罰化の流れもあり2人殺害にも死刑判決が出るようになってきた。また、2005年には女子短大生1名を殺害した被告に、2006年には幼女1名を殺害した被告に、それぞれ死刑判決が出た。近年の死刑判決増加がメディアでも報道されている(2006年に死刑判決44人、確定21人、1980年統計公表開始以来最多)。

執行までの期間[編集]

刑事訴訟法の第475条では、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められているが、再審の請求や恩赦の出願等の期間はこれに含めないことも定められており、また判例によれば6ヶ月以内の執行は法的拘束力のない訓示規定とされている(これについては現状説明のための後付けではないかとの意見もある)こともあって、死刑確定から執行まで、多くが数年から十数年もの間、平均では7年6ヶ月を要するのが実際である。異例の早さで死刑が執行されたといわれる附属池田小事件の元死刑囚でさえ、確定してから約1年の時間を要している。そのため、刑を執行されないまま拘置所の中で一生を終える死刑囚もいる。

精神の異常を疑われたまま死刑判決を受けた者や、冤罪が疑われながら死刑判決を受けた者については、更に執行が避けられる傾向にあり(執行された例もある)、外部交通が制限されるなか、長年にわたり何度も再審請求を繰り返して、最終的に無罪となった元死刑囚も存在している。

拘置[編集]

死刑が執行されるまでの間、死刑囚は刑場を有する以下の拘置所拘禁される。

なお、東京拘置所に刑場が設置される前は、宮城刑務所で死刑を執行しており、「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。

拘置所により若干異なるが、死刑囚は執行までの間、便器・流し台・机・寝具等が収納された3畳ほどの居房の中で脱走・自殺防止用のカメラに24時間監視されながら生活をする。居房の窓と鉄格子の間は小さな穴の開いた金属板で覆われるため外の景色はほとんど見えず、換気も大変悪く、ほとんどの拘置所には冷暖房装置も無い。

起床は午前7時、就寝は午後9時だが、カメラで監視を行うため、明かりを暗くして消灯は行わない。運動、入浴は夏期は週3回、夏期以外は週2回。運動はベランダかコンクリート床の所で30分程度で、縄跳びのみ支給される。入浴は着替えも含め15分程度。但し最近は、拘置所側が規定を拡大解釈することによって、これより多い場合もあるらしい。それ以外は居房の中で座って過ごす。食事は朝食が八時、昼食が十一時半、夕食は十六時半に支給される(食事の味付け、量は個人差があり評価はまちまちだが、生野菜がないためビタミン不足になりがち。その為、親近者からの差し入れか、申請して果物類を購入して摂取する)。

希望すれば、封筒貼り等の軽作業(贖罪)もすることができ、賞与金を得ることができる(最高、月に四~五千円位)。

外部との交通

外部交通は手紙と面会に限られる。
手紙は1日に1通送ることができ、内容については検閲される。
面会は1日に1回許可され、内容は記録される。面会時間は長くとも30分以内と決められているが、実際は長くて10~15分程度しかなく、短いときには5分程度で話を打ち切るよう催促される。面会の相手は家族と弁護士に限られており、家族以外の友人やジャーナリストNGOスタッフなどが面会を申請しても原則的に許可されない(取材を目的とした面会は一切許可されず、ジャーナリストなどが面会する場合は「面会したことを記事にしない」という趣旨の誓約書を書かされる)。

このため、家族と疎遠になっている場合などには、何年間も誰とも面会できない者もいる。また、死刑囚の支援者らが養子縁組などを行い、家族として面会を求めた場合も拒否される(面会のためだけに養子縁組となり、家族という形で面会することを刑務所側が拒否したのは合憲とする、という判例もある)。

このような外部交通の制限について日弁連は報告書で、国際人権規約に反するとしている。

執行までの手続き[編集]

死刑判決が確定すると、判決謄本と公判記録は当該受刑者の死刑を求刑した検察庁に送られる。高等検察庁検事長、あるいは地方検察庁検事正は、これらの書類を基に、死刑囚に関する上申書を作成し法務大臣に提出する。上申書は、法務省刑事局に回される。同時に検察庁から刑事局に裁判の確定記録が運ばれる。刑事局総務課は資料が全て揃っている事を確認し、刑事局担当の検事が記録を審査する。通常、死刑該当犯罪の場合、その裁判資料は膨大なものであるから審査には時間がかかる。特に、刑の執行を停止しなければならない件、非常上告の有無の件、再審の件、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認される。審査の結果、死刑執行に問題がないと判断されると、検事は死刑執行起案書を作成する。死刑執行起案書は刑事局、矯正局、保護局の決裁を受け、これらの決裁の確認の後、死刑執行命令書として大臣官房へ送られる。ここまで、膨大な資料の確認と決裁のため、相当な時間がかかるが、この間に死刑囚が妊娠した場合や、精神に異常をきたした場合は、書類は刑事局に戻される。

死刑執行命令書は官房長の決裁を経て、法務大臣の下へ届く。本来であれば法務事務次官の決裁が必要だが、法務大臣法務省の事務方代表である法務事務次官の決裁が食い違っては、政治的問題になるので、法務事務次官の決裁は、法務大臣の決裁を経た案件だけに行われる。

法務大臣の署名には必ず赤鉛筆が使われるが、これが行われない限り、死刑執行は不可能である。大半の大臣は署名を嫌がるといわれる。また、在任中に信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった大臣もいる(賀屋興宣左藤恵など)。2005年には法務大臣に就任した杉浦正健が記者会見で「(死刑執行命令書に)私はサインしない」と異例の発言を行い、1時間後に撤回する事態となった(ただし、杉浦法相は在任期間中命令書に一度もサインすることはなかった)。

例外的ではあるが、死刑の執行に積極的な大臣も存在した。田中伊三次は法務大臣就任後、知り合いの記者に「死刑が執行されるところを見に行こう」と誘い、相談した刑事局総務課長から叱責されたり、「これから死刑執行命令書のサインを行うので写真を撮ってくれ」と、数珠を片手にポーズを構えたが、あまりの悪趣味に産経新聞を除く記者クラブの記者らに呆れられたといわれている。これは翌日(1967年10月17日)の朝刊一面で報じたのは、その一社だけだったためである。また、反対に裁判資料を持ち込み悩みながら熟読し判断を下した大臣も居た。

大臣の性格により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例を出来る限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われるという。ただし主義主張に無関係もしくは不明ながら任期が短い等の経緯により、結果として在任中死刑執行を一人も行わなかった法務大臣も、もちろん第2次世界大戦後複数存在する。

執行[編集]

法務大臣が署名、押印して執行命令書が作成されると、拘置所長に届けられ、5日以内に死刑が執行される。法律(刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律71条2項および刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条2項)の規定により、日曜日、土曜日、国民の祝日、12月29日から1月3日までの間は死刑の執行は行われない。

執行予定日は、死刑囚やその家族・マスコミ被害者の家族等、外部には一切知らされない。過去においては当該死刑囚に前日または前々日に執行の予定を告げ、死刑囚の希望する食事を出来る限りの範囲で与え、特別の入浴や親族との面会を許可し、同囚や宗教教誨師や担当刑務官らを交え「お別れ会」を行う事も有った。

現在では、死刑囚には当日の朝に執行を告げられ、午前中に執行されるというのが近年の傾向である。この告知方法については、毎朝、執行が予定されていない日においても、死刑囚に不要な恐怖を与えて残虐であると内外から批判が強い。また、防御権の行使・遺言の伝達・家族間の別れの挨拶等を行うことも不可能になるため、死刑廃止国、死刑反対団体から強く批判されている。死刑存置国から正式にこれについて抗議は無い。なぜ廃止されたかといえば、死刑通告を処刑前に通達すると、執行前に自殺されたり、または執行官が病気などを理由をとして休むことが多かったからである。対外的な理由としては「死刑囚の心情の安定のため」としている。

死刑執行の日、死刑囚の房には死刑囚の抵抗に備え、特別警備隊と呼ばれる、頑強な刑務官で構成された一隊が送られ、保安課長より死刑囚にこれから死刑を執行する旨が伝えられる。時間は午前9時から11時の間が通常であると言われている。淡々と従う者、抵抗を試みる者、恐怖で茫然自失となる者、泣き叫びながら命乞いをする者、反応は様々である。ここでは遺書を書く時間や、房や荷物を整理する時間は全く与えられず、即座に特別警備隊により刑場へ送られる(なお、遺書に関しては刑場にて執行前に書く事ができる。後述)。

刑場には、手前の部屋に祭壇、奥の部屋に刑場が設置されている。(白いカーテンにより区切られているという)死刑には拘置所長、立会検事、検察事務官、保安課長、教育課長、医官2名、刑務官5名以上、宗教教誨師が立ち会う。祭壇は回転式になっており、死刑囚の信仰する宗教に応じて、仏教キリスト教神道の祭壇を選ぶことが出来る。無宗教も選択できる。拘置所長による死刑執行指揮書の読み上げが行われる。宗教教誨師が最後の説教説法を行う。その後、死刑囚は拘置所長や刑務官らと別れの挨拶を行うのが一般的である。死刑囚を落ち着かせるために拘置所長・教育課長・宗教教誨師が講話を行う。祭壇には供え物の生菓子が置かれており、教育課長から最後の飲食をすすめられる。しかしそれに手をつける死刑囚は極めて希である。拘置所長が死刑囚に最期に言い残したいことは無いか尋ねる。遺言が有れば遺言を残すことが出来、希望があれば遺書を書く事も出来るが、時間は限られている。

一通り終わると死刑囚は刑場へ連行される(宗教教誨師が仏教系の場合、処刑までの間、読経が行われるという)。刑務官らにより目隠しと、腕の拘束、足の拘束が迅速に行われ、ロープがかけられ(ロープの頚に当たる部分はで覆われている)、長さが調節される(これらは死刑囚を立たせた状態で行われるが、札幌拘置所のみ椅子に座らせて行われる)。拘置所長の合図により、5人の刑務官により同時に5つのボタンが押される。これは刑務官の精神的苦痛に配慮した仕組みで、どのボタンがダミーなのかは一切不明である。床板が開き死刑囚は地下へ落下する。なおこの手順は死刑囚が従順な場合であり、激しく抵抗する者などは前記の儀式など行えるはずもなく、刑務官らの力により刑場に引き立て処刑という事になる。概ね日本の死刑囚は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、その実際を知るすべはない。

死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首(いしゅ)である。死刑囚は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には死ぬとされている。死刑囚の中には、失禁脱糞射精をしている者もいるという。日本では死刑囚に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑囚が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑囚は意識を失うとの立場からの説である。落下した死刑囚は激しく痙攣するので、係の刑務官が取り押さえる。(「10分経っても絶命しなければ新しい名前と戸籍が与えられて裏口からこっそり釈放される」などの都市伝説があるが、全くのデタラメである。ところが、死刑囚の中にはこの話を信じて必死に10分間息を止める練習をする者もいるという。しかし、上記のように絞首刑は窒息させることではないので、全くの無駄である。)過去においては執行中に縄が切れて無罪放免になった死刑囚もいたが(明治時代)、現在ではどんなことがあっても必ず死刑囚を死亡させる。縄が切れたり蘇生した場合は、刑務官が柔道の締めを行い窒息させる。

立ち会った医官により死刑囚の死亡が確認される、法律の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。検察官と執行施設の長により死刑執行始末書に押印・署名されて、事件に関するすべてが終わる。立会人らにはが振る舞われるという。執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑立会いについて気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。

そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官が多いというが単に同僚みんなで余分な小遣いを楽しんでいるのか精神的心労によるものであるのかは不明。また、死刑執行手当を手に寺へ行き、死刑囚の供養を依頼する刑務官もいるという。死刑囚の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑囚の遺体は少ない。連絡が取れなかったり引き取りを拒否されるなどして引き受け先が無い場合は火葬後、無縁仏として合葬される。また、死刑囚の遺言により献体とされる遺体も多いと云う。

以上のような死刑執行の様子は一切公表されることがない。立ち会う者も拘置所所長、刑務官検察官など行政府に属する者に限定されている。そのため、実際のところはほとんど不明で、それを知るためには、関係者の匿名の証言に情報を頼らざるをえない状況である。

徹底した秘密主義[編集]

日本の死刑の特徴の一つとして、徹底した密行主義が挙げられる。マスコミや被害者の家族等を死刑の執行に立ち合わせることは無い。死刑の執行予定が公表されないことに加え、執行後も死刑囚の氏名や罪状等、多くの情報が公表されない。最近、国会議員に刑場見学が許可されるまでは、国会議員や学者による要請であっても刑場の見学等は一律に許可されていなかった。死刑囚の最期の様子が伝えられることは無く、日記などの遺品の内の何種類かは死刑囚の家族にも返還されない。

近年の傾向として執行日が国会閉会中の木・金曜日に偏っていることが言われる。連続した平日に5日かけて執行準備が行えるという理由のほかに、国会での追及を避けること、続く休日にあえて執行を取り上げて追及するマスコミが少ないことも理由になっているはずだという批判が存在する。さらに近年は法務大臣の辞任間際に死刑執行命令がなされる傾向がある。これは法務大臣も人であり職務の執行とはいえ死刑執行の署名を嫌がることから、検察側から催促がかかりだす辞任直前まで執行命令がなかなか出されないことによると言われている。また、凶悪事件が起きた直後にも執行されることも多い。これは、死刑に賛成する世論の最も強い時期に執行することにより死刑批判をかわせること、および凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるということを国民に知らしめる一般予防効果を狙うことが理由であろう(しかしながら、2006年には年末も押し迫った時期の月曜日に執行された。このときは法務大臣の辞任間際でもなかったことから、法務省が執行ゼロの年を作りたくなかったのでは、との見方がある。なお、このときには一気に4人の死刑が執行されている)。

死刑執行は国会閉会中に行なわれる傾向があるが、2007年4月27日金曜日通常国会開会中)に3人に死刑が執行された。長勢甚遠法相安倍内閣)としては就任後2回目の死刑執行であり、国会開会中の執行はきわめて異例といえる。

日本における死刑の歴史[編集]

平安時代以前[編集]

死罪 (律令法)を参照のこと

平安時代[編集]

平安時代には、嵯峨天皇弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布して死刑執行が停止された。死刑相当の罪に対しては流罪等が適用され、災害や朝廷内の出来事ごとに恩赦が出されたために、判決が下された後に釈放されるケースも多かった。また薬子の変以降、中央での政争が武力によって解決されることはなくなった。

平安時代は、不殺生を説く仏教が特に重んぜられた時代であり、特に穢れ思想は貴族階級に浸透していた。また天変地異や疫病などの災いの原因を怨念や祟りと考えた時代でもあり、そのことからも死刑は避けられ、政争においても血が流されることはなかったのである。

ただし、これは京の中央政界のみでの現象であり、承平天慶の乱など続発する地方の戦乱への追討行動は行われていた。平安末期には武士が台頭し、自力救済の思想が一般的となる。武士の時代の到来を告げた保元の乱の戦後処理として死刑が復活した。後白河天皇源為義らを斬罪に処すよう提言した藤原信西の言葉には「おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。(中略)若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん」(保元物語巻之二「為義最後の事」より)とあり、兵乱の防止を目的として死刑を復活させたことが記録されている。保元の乱で処刑されたのは武士だけで、武家における私刑(源為義が源義朝に、平忠正平清盛にそれぞれ預けられた)という形式がとられたが、平治の乱では貴族である藤原信頼が斬首となり、ついに中央政界における死刑が復活するのである。

嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、347年の間、京における死刑執行は停止されていた。古代においてこれほど長期間死刑が行われなかった例は特筆に値する。ただ、死刑の停止と当時の恩赦の濫発が死刑に相当する罪を犯した人物を短期間の囚禁で釈放させてしまう事態を引き起こして治安の悪化を招いたとする説もある。

中世[編集]

鎌倉時代鎌倉幕府は死刑の種類について、絞と斬の2種類に定めていたが、地方においては鋸挽獄門なども行われていた。

また鎌倉・室町時代には全国的に統一された絶対的な司法権が確立せず、各荘園が独立した司法権・刑罰権を有するようになった。そのため、弱小な荘園に所属する者が強大な荘園に所属する者から害を与えられた時には泣き寝入りになることが多く、小荘園はそれに対抗するために小荘園同士で同盟を結んで大荘園に対抗し、人的被害が生じた場合は再犯の防止を目的として同じ程度の被害が生じるように相手の荘園に生贄を要求した。同じ荘園からの再犯を防止するためには相手の荘園に同じ程度の被害が生じれば事足りるため犠牲は犯人である必要はなく、荘園の中の下層階級の者や被差別民が犯人の代わりに差し出されることが多かった。一つの事件を「死んで解決した人」であることから「解死人」(げしにん)と呼ばれるようになり、後の「下手人」との呼び方につながっていった。

戦国時代[編集]

鎌倉・室町から戦国時代にかけて世の中が戦乱に巻き込まれるようになるにつれ、社会の過酷さを反映して串刺牛裂車裂釜茹で(盗賊石川五右衛門の処刑が有名)などのように刑罰も苛烈になっていった。

経済犯に対して死刑が適用されたり、謀反などの重罪に対して連座制が適用されたり、領主世俗的権威とは独立した権威を説くキリシタン一向宗徒等の宗教勢力に対して、根絶見せしめのために残虐刑が多用されたり、というように、領国の治安強化や粛清のために死刑を多用する戦国大名たちが現れた。

江戸時代[編集]

酷刑の傾向は江戸時代初期まで続いたが、あまりに残虐な刑罰はやがて廃止された。武士に対しては切腹または斬首武士でない階級には鋸挽火罪下手人死罪獄門が適用された。切腹は武士としての名誉を尊重する形式であり、斬首は不名誉刑として不名誉な罪に対し行われた。

江戸時代の刑罰も軽罪犯に対して死刑を適用し、重罪に連座制を採用するというように治安目的の傾向を強く読み取ることができるが、密通生命刑が予告されていたり、同じ生命刑の中でも親殺し(尊属殺人)や主殺しは一段重く罰せられていたことなどから、死刑が当時の文化身分秩序の維持を目的として行われていた面があることも読みとれる。

8代将軍徳川吉宗のときに定められた公事方御定書によって死刑の種類は火刑、獄門、死罪、切腹などに限定され、残虐なやり方による死刑を制限する方向へとつながった。ただし公事方御定書は江戸町奉行のみが閲覧を許される秘法であったため、罪刑法定主義による死刑が行われていたわけではない。

なお、尾張藩徳川宗春は統治期間中に領内において死刑を廃止している。彼の思想を記した「温知政要」では、死刑について「取り返しの付かない刑罰」であるとし、その運用は慎重の上に慎重を重ねるべきと述べている。

近代[編集]

明治政府は1870年明治3年)に新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定し、また1880年(明治13年)には絞首1種類に限定した(ただし、陸軍刑法海軍刑法など陸海軍軍法における銃殺刑が存在した)。

戦後から現代へ[編集]

1946年昭和21年)に公布された日本国憲法における死刑の違憲性については、1948年(昭和23年)の最高裁判決(最高裁昭和二十三年三月十二日大法廷判決)においては合憲の判断がなされている。

これによれば、死刑の存在意義は一般予防特別予防の二つにあるとされる。判決理由において、「死刑の威嚇力によつて一般予防をなし」(一般予防の効果)、「特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもつて社会を防衛せんとしたもの」(特別予防の効果)であるとして、死刑は新憲法下でも合憲と認められた。その後、多くの死刑判決において上記判決理由の引用にもとづいて死刑の合憲性が認められている。すなわち司法的な死刑の存置理由は「一般予防」と「特別予防」にあるという点に変化はないものと思われる。また、憲法自体が生命刑を予定しているとの説があるが、これについては議論があり定まっていない。

ただし、司法上の死刑の存置理由である「一般予防」と「特別予防」の効果に関し、近年において人権上の観点から、また、科学的観点から各種の疑問が呈され、「一般予防」については死刑廃止国の経過から死刑存続の理由は否定されるに至っている。「特別予防」に関しては、日本の現行法制度では死刑の次は無期懲役であり、無期懲役では予防効果を十分に果たせないため、当該犯罪者を終身社会から隔離する刑の創設が求められている。

威嚇効果に関しては、上述のように現在の実務・学説ともに引用・言及するが、死刑の執行により犯罪が抑止されたという説得的な記録はいまだかつて存在しない。この場合に問題となるのは死刑「独自」の犯罪抑止効果である。死刑「独自」の犯罪抑止効果が存在しない、あるいは、確認できないのであれば、刑罰の謙抑性から考えて、死刑を選択すべきでないという論理が成立する。

また、「法確信の形成のために死刑が存在する」という主張は一昔前には盛んに行われたが、人命救助につながらない「文化の維持」や「道徳の促進」等は、人命という現代社会における至上の価値の上に無用な「文化」や「道徳」等を導入して位置付けることになり、現代ではその正当性を法的に説明することが容易ではなくなっている。

特別予防としては、矯正不能と予想される犯罪者が再び社会に帰って犯罪を犯すことを死刑が防止する点が意味を持つことになるが、経済的・科学的に発展し各種の代替策の設置が可能になった現代においては、憲法的な承認を得ることが難しくなっている。また、更生の可能性の否定や隔離という政策自体に対して、人権上の立場から批判する者たちも決して少なくない。

現代日本でも死刑廃止への動きは脈々と存在し、1989年国連死刑廃止条約(「国際人権規約」の「市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」)が採択される。日本はこれに反対するが、1989年11月から1993年3月までの3年4ヶ月の間は死刑執行が行われなかった。また1994年には亀井静香議員を中心とする超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」も発足している。

しかし、2000年代から「加害者の人権よりも被害者の心情が重んじられるべきだ」という「報復刑」としての死刑という考え方や、厳罰化により犯罪の抑止を図ろうという考え方などが支持を集めている。近年においては「光市母子殺害事件」の被害者遺族が加害者への死刑を求める運動を展開し、多くの同情と理解を集めた(背景には、いわゆる死刑廃止派の著名な法学者などによる被害者遺族への誹謗中傷や、人権派と称する弁護士や市民運動家の犯罪被害者に対する冷淡な態度への反感が色濃く見られる)。日本においての犯罪件数は減少傾向にはあるが、附属池田小事件和歌山毒物カレー事件など理不尽な凶悪犯罪に対する世論の関心も、このことの追い風となっている。また、死刑の次に重い無期懲役には仮釈放の制度が存在し、仮釈放中の者が凶悪犯罪を起こすケースが続いたことから、判決でも死刑判決が増加する傾向にある。なお、死刑の執行は、1993年4月に後藤田正晴法務大臣(当時)が復活させて以降、2019年までほぼ毎年必ず行われてきた。

2018年7月にはオウム真理教事件の死刑囚の一斉執行が行われた。

日本においても死刑制度は存在するものの、コロナ禍が始まってからは死刑の執行は非常に稀なものとなっており、日本の死刑制度は事実上有名無実化している。死刑判決が確定しても、死刑が執行されずに病死・老衰死を迎えるまで拘置所で過ごす者も多く、事実上の終身刑化が進んでいると言って良い。現在執行待ちの死刑囚の数は100人以上に上っており、被害者遺族から執行が遅すぎるという意見が後を絶たない。

日本の歴史上、最後の死刑執行は秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大である。加藤の場合事件発生から14年後に死刑執行がなされたが、これでも早い方で、北九州監禁殺人事件光市母子殺害事件の死刑囚のように事件発生から20年、25年あるいは30年以上経過しても執行されないケースも多い。

2007年現在、日本は「死刑廃止条約」を批准していない。

※死刑存廃をめぐる現在の日本の動きについては死刑存廃問題の項目を参照のこと。

その他[編集]

残虐な刑罰に関する論争

絞首刑が日本国憲法で規定されている拷問および残虐な刑罰にあたるかどうかの論争があるが、最高裁判所判例は、絞首刑を合憲としている。また、無期懲役も合憲とされている。

最高裁判例によれば、現行の絞首刑が火あぶりなどの残虐な方法による死刑になった場合は違憲になるとされている。また、仮釈放を一切認めない終身刑(絶対的終身刑)も残虐な刑罰であり、違憲ではないか、という意見もある。なお、多くの国における終身刑は仮釈放のある相対的終身刑であり、国によって仮釈放の運用に若干の違いこそあれ、日本の無期懲役と同じものである。

政府による世論調査要出典

政府ではかつて20歳以上の者を対象に、下記の問いによる世論調査を行っていた。

  1. 死刑を廃止すると犯罪が増加すると思いますか?
  2. 死刑を廃止した場合、被害者の遺族の心情に影響はありませんか?
  3. あなたは死刑制度に賛成ですか?反対ですか?

この方法には批判が高まったので、別項目で「死刑がなくなった場合、凶悪な犯罪が増えるという意見と増えないという意見があるが、どのように考えるか」という質問を行い、下記の三択質問に答えさせる形式とした。

  1. どんな場合でも死刑は廃止すべきである
  2. 場合によっては死刑もやむを得ない
  3. わからない、一概に言えない

存廃をめぐる問題[編集]

死刑存廃問題死刑廃止条約を参照。

参考文献[編集]

  • 重松一義『死刑制度必要論』(信山社)
  • 植松正著・日髙義博補訂『新刑法教室I総論』(成文堂)
  • 板倉宏『「人権」を問う』(音羽出版)
  • 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」法律のひろば43巻8号〔1990年〕
  • 井上薫『死刑の理由』(新潮文庫) 永山事件以、死刑確定した43件の犯罪事実と量刑理由について記されたもの。
  • 竹内靖雄『法と正義の経済学』(新潮社)
  • 坂本敏夫『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか―実録 死刑囚の処遇から処刑まで』 日本文芸社
  • 坂本敏夫『死刑のすべて―元刑務官が明かす』文春文庫

外部リンク[編集]