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'''野村 吉三郎'''(のむら きちさぶろう、[[1877年]]([[明治]]10年)[[12月16日]] - [[1964年]]([[昭和]]39年)[[5月8日]])は、[[昭和]]初期に活躍した[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[外交官]]、[[政治家]]。[[和歌山県]]出身。位階勲功等は[[海軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等旭日桐花大綬章]]。
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<nowiki>'''野村 吉三郎'''(のむら きちさぶろう、[[1877年]]([[明治]]10年)[[12月16日]] - [[1964年]]([[昭和]]39年)[[5月8日]])は、[[昭和]]初期に活躍した[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[外交官]]、[[政治家]]。[[和歌山県]]出身。位階勲功等は[[海軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等旭日桐花大綬章]]。
  
 
駐[[アメリカ合衆国|米]]大使として[[真珠湾攻撃]]まで[[日米交渉]]に奔走した。
 
駐[[アメリカ合衆国|米]]大使として[[真珠湾攻撃]]まで[[日米交渉]]に奔走した。

2018年2月15日 (木) 01:09時点における版

'''野村 吉三郎'''(のむら きちさぶろう、[[1877年]]([[明治]]10年)[[12月16日]] - [[1964年]]([[昭和]]39年)[[5月8日]])は、[[昭和]]初期に活躍した[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[外交官]]、[[政治家]]。[[和歌山県]]出身。位階勲功等は[[海軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等旭日桐花大綬章]]。 駐[[アメリカ合衆国|米]]大使として[[真珠湾攻撃]]まで[[日米交渉]]に奔走した。 == 経歴 == === 海軍軍人時代 === 1895年([[明治]]28年)、[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|和歌山中学校]]を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立[[海城中学校・高等学校|海軍予備校]]で学び、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](26期、[[1898年]])卒業。以後[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人としての経歴を歩む。 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、1901年(明治34年)に完成した[[戦艦]][[三笠 (戦艦)|三笠]]引取りのために[[イギリス]]へ渡ったのをはじめ、[[オーストリア]]、[[ドイツ]]駐在を経て、駐米日本大使館附武官・[[パリ講和会議]]と[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。[[海軍大学校]]は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。後に[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]となる[[フランクリン・ルーズベルト]](米海軍次官 1913−1920年)ら海外の政治家とも親交があった。やがて1926年(大正15年)には[[軍令部]]次長となり、以後[[呉市|呉]]・[[横須賀市|横須賀]]の両[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府司令長官]]などを歴任した。 1932年(昭和7年)に[[上海事変]]が勃発すると、[[白川義則]]陸軍大将率いる上海派遣軍司令官を側面から支援するかたちで、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官となっていた野村は艦隊を率いて上海に上陸する。その事変に一応の平定を見た4月29日、同地で催された[[天長節]]祝賀会の最中に[[上海天長節爆弾事件|爆弾テロ事件]]が起こる。紅白の幕を背に雛壇に並ぶ日本の政府・軍の要人に対し、朝鮮人・[[尹奉吉]]が爆裂弾を投げつけたのである。この事件で野村は右目を失明、[[特命全権大使]]の[[重光葵]]は左足を失い、同席していた白川は瀕死の重傷を負って一月後に死亡した。 [[隻眼]]となった野村に艦隊の指揮官の道は閉ざされたが、この事件で勲功を認められて翌年[[海軍大将]]に昇進。翌昭和9年には[[勲一等旭日大綬章]]を受章している。 === 外交官として === [[Image:Nomura presenting credentials to Roosevelt at White House.jpg|left|200px|thumb|<span style="font-size:90%;">信任状奉呈のためホワイトハウスを訪れる野村駐米大使(1941年2月14日)</span>]] [[1939年]](昭和14年)8月末、予備役陸軍大将の[[阿部信行]]が[[組閣の大命]]を受けると、阿部は当初[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を兼任したが、政権発足直後に欧州で[[第二次世界大戦]]が勃発すると、国際法に詳しい専任の外相がどうしても必要になった。そこで阿部が抜擢したのが野村だった。海軍時代から[[国際法]]を研究に携わっていた野村は、退官する頃までにはその権威として知られていたのである。しかし9月25日に野村は外相に就任するが、3ヵ月半とたたないうちに阿部は内閣を放り出してしまう。 その後日米関係が悪化の一途をたどる中、[[1941年]](昭和16年)1月に野村は駐米大使に起用される。ルーズベルトとは旧知の間柄ということが期待されての人事だったが、日本の南部[[仏印進駐]]によってアメリカとの関係が一層悪化すると、日本政府は前駐独大使で外務官僚の[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]を異例の「二人目の大使」として[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に派遣、両大使でアメリカの[[コーデル・ハル|ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]と戦争回避のための交渉を行った。外交経験の少ない野村を来栖に補佐させようとしたこの人事は逆にアメリカ側の不信を招く結果となり、交渉は難航した。 [[Image:Hull, Nomura and Kurusu on 7 December 1941.jpg|210px|thumb|<span style="font-size:90%;">真珠湾攻撃の直前にハル国務長官と最後の会談に臨む野村大使と来栖大使(1941年12月7日)</span>]] 野村はかねてから「アメリカの挑発がない限り、日本は戦争を起こさない」と言明していたが、中国からの日本軍の全面撤退や[[日独伊三国軍事同盟]]の破棄、重慶[[国民党政府]]以外の否認を求める[[ハル・ノート]]を[[最後通牒]]と受け取った日本は、米英等を相手とする[[第二次世界大戦]]に突入することを決定するが、日米交渉はその後も継続して行われた。 アメリカ東部時間の[[1941年]][[12月7日]]、日本は[[マレー作戦]]と[[真珠湾攻撃|真珠湾作戦]]で米英仏蘭と開戦したが、アメリカに対する[[宣戦布告]]は遅れて、真珠湾攻撃開始の55分後になってしまった( → 詳細は「[[真珠湾攻撃#宣戦布告遅延問題|真珠湾攻撃と対米宣戦布告の遅延]]」を参照)。野村はハルから「卑怯な騙し討ちだ」と罵られ、針のむしろに座るような思いでその後の半年をワシントンで過ごす。[[抑留者交換船]]でニューヨークからリオデジャネイロ、[[マプト|ロレンソマルケス]]、[[シンガポール|昭南]]を経て日本に戻ったのは翌年8月の中頃のことだった。帰国後は[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]に転じ、そのまま終戦を迎える。 === 戦後 === 終戦後の[[1946年]](昭和21年)8月に、野村は[[公職追放]]となるが、ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は積極的に野村に近づき、定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。メンバーの一人であるウィリアム・キャッスルは、野村を「日本を正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と評した。 [[1953年]](昭和28年)同郷の[[松下幸之助]]に請われ、松下の資本傘下となった[[日本ビクター]]の社長に就任。空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカ[[RCA]]と技術支援契約を結び再建の道筋をつける。 追放解除に伴い、[[吉田茂]]の要請で[[再軍備]]問題の調査にあたり、[[海上自衛隊]]の創設に関わる。これが縁で[[1954年]](昭和29年)に[[参議院]]選挙に出馬、[[参議院|参議院議員]]となる。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、[[松野鶴平]]の[[参議院議長]]就任に伴い党参議院議員会長に就任した。[[鳩山内閣]]・[[第1次岸内閣|岸内閣]]で[[防衛大臣|防衛庁長官]]への起用が取り沙汰されたが、[[日本国憲法]]における[[文民統制]]の観点から見送りになった。その後の人事では旧軍・自衛隊の士官経験者の防衛庁長官も誕生しているが([[山下元利]]・[[中谷元]]など)、当時としてはまだ時期尚早で、なによりも野村が旧海軍軍人として大物過ぎたこと、そして日米開戦時の駐米大使としてあまりにも有名でありすぎたことが逆にたたる結果となった。 == 年譜 == * [[1898年]](明治31年)12月13日 - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業(26期)。 * [[1900年]](明治33年)1月12日 - 任[[少尉|海軍少尉]]。 * [[1901年]](明治34年)10月1日 - 任[[中尉|海軍中尉]]。 * [[1903年]](明治36年)9月26日 - 任[[大尉|海軍大尉]]。 * [[1904年]](明治37年)10月19日 - [[巡洋艦]]「[[済遠 (巡洋艦)|済遠]]」航海長。 * [[1905年]](明治38年) ** 1月12日 - 「京城丸」航海長。 ** 6月14日 - 防護巡洋艦「[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]」航海長。 ** 11月21日 - 海軍兵学校航海術教官。 * [[1906年]](明治39年)10月25日 - 巡洋艦「[[橋立 (巡洋艦)|橋立]]」航海長。 * [[1907年]](明治30年)12月18日 - 巡洋艦「千歳」航海長。 * [[1908年]](明治41年) ** 3月3日 - [[オーストリア]]駐在。 ** 9月25日 - 任[[少佐|海軍少佐]]。 * [[1910年]](明治43年)5月23日 - [[ドイツ]]駐在。 * [[1911年]](明治44年)9月13日 - 防護巡洋艦「[[音羽 (防護巡洋艦)|音羽]]」副長。 * [[1913年]](大正2年) ** 2月26日 - [[海軍省]]副官。[[海軍大臣]][[秘書官]]。 ** 12月1日 - 任[[中佐|海軍中佐]]。 * [[1914年]](大正3年)2月11日 - 在[[アメリカ合衆国]][[大使館]]付[[駐在武官|武官]]。 * [[1917年]](大正6年)4月1日 - 任[[大佐|海軍大佐]]。 * [[1918年]](大正7年)10月18日 - 巡洋艦「[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]」艦長。 * [[1919年]](大正8年) ** 2月5日 - 講和全権委員随員。 ** 11月12日 - 免講和全権委員随員。 * [[1921年]](大正10年)8月17日 - ワシントン会議随員。 * [[1922年]](大正11年)6月1日 - 任[[少将|海軍少将]]。 * [[1923年]](大正12年)9月15日 - [[第一遣外艦隊]]司令官 * [[1925年]](大正14年)9月18日 - 海軍省教育局長。 * [[1926年]](大正15年) ** 7月26日 - [[軍令部]]次長。 ** 12月1日 - 任[[中将|海軍中将]]。 * [[1929年]](昭和4年)2月1日 - [[練習艦隊]]司令官。 * [[1930年]](昭和5年)6月11日 - [[呉鎮守府]]司令長官。 * [[1931年]](昭和6年)12月1日 - [[横須賀鎮守府]]司令長官。 * [[1932年]](昭和7年) ** 2月2日 - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。上海事変に従軍。 ** 4月29日 - 上海天長節爆弾事件に遭い、右眼を失明。 ** 6月24日 - [[勅語]]を賜る。 ** 6月28日 - [[軍事参議院|軍事参議官]]。 ** 10月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 * [[1933年]](昭和8年) ** 3月1日 - 任[[海軍大将]]。 ** 11月15日 - 軍事参議官。 * [[1934年]](昭和9年) ** 2月7日 - [[勲一等旭日大綬章]]。 ** 4月29日 - 功二級。 * [[1937年]](昭和12年)4月6日 - [[予備役]]編入。[[学習院]]長。 * [[1939年]](昭和14年)9月25日 - [[阿部内閣]]において第61代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任( ~ [[1940年]]1月16日)。 * [[1940年]](昭和15年) ** 7月13日 - [[勲等|勲一等]][[瑞宝章]]。 ** 11月27日 - 駐アメリカ合衆国特命全権大使。 * [[1944年]](昭和19年)5月18日 - 枢密顧問官( ~ [[1946年]]6月13日)。 * [[1946年]](昭和21年)8月 - 公職追放。 * [[1953年]](昭和28年) - [[日本ビクター]]社長。 * [[1954年]](昭和29年) - [[参議院|参議院議員]]。 * [[1964年]](昭和39年)5月8日 - 死去。[[勲一等旭日桐花大綬章]]。 == エピソード == * 学習院院長だった1940年10月に、[[華族]]の子息である中等科3年の生徒5人が、日頃から自分達の素行の悪さを注意していた化学教師を[[逆恨み]]したことから、廊下を歩いていた教師をめがけて石を投げつけただけでなく、倉庫へ逃げた教師を追いかけて、更に投石によって倉庫の窓ガラスを何十枚も割るという事件を起こした。しかし野村は'''「なかなか元気のいいことをやったな」'''と言っただけで、1週間の停学処分だけで済ました。 * 戦後の[[1953年]]より、同郷の知人[[松下幸之助]]の要請を受けて、日本ビクター社長を務めたが、松下によると野村は「[[美空ひばり]]を知らなかった」という。 == 文献 == * 著書 『米國に使して 日米交渉の回顧』([[岩波書店]] 1946年(昭和21年)) * 著書 続篇『アメリカと明日の日本』 初版:([[読売新聞社]] 1947年) : 復刻:吉村道男監修 日本外交史人物叢書21巻([[ゆまに書房]] 2002年) * [[豊田穣]] 『悲運の大使野村吉三郎』 ([[講談社]] 1992年)([[講談社文庫]] 1995年) * 尾塩尚 『駐米大使野村吉三郎の無念 日米開戦を回避できなかった男たち』( [[日本経済新聞]]出版社 1994年) == 関連項目 == * [[岩畔豪雄]] * [[海上警備隊]] * [[将官・佐官出身の国会議員の一覧]] == 外部リンク == *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei_kyuzosha.html#no 国立国会図書館 憲政資料室 野村吉三郎関係文書] - 説明のページが未整備。2009年8月21日現在 ---- {{先代次代|[[学習院|学習院院長]]|第16代:[[1937年]] - [[1939年]]|[[荒木寅三郎]]|[[山梨勝之進]]}} {{先代次代|[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]|第61代:[[1939年]] - [[1940年]]|[[阿部信行]]|[[有田八郎]]}} {{外務大臣}} {{DEFAULTSORT:のむら きちさふろう}} [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:自由民主党の国会議員]] [[Category:参議院議員]] [[Category:日本の枢密顧問官]] [[Category:日本の海軍軍人]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:和歌山県の政治家]] [[Category:日本の大使]] [[Category:障害を持つ人物]] [[Category:1877年生]] [[Category:1964年没]]