増田宋太郎

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{{Infobox 革命家 |名前=増田 宗太郎 |画像=[[画像:Sotaro Masuda.jpg|200px|増田宗太郎]] |説明=肖像 |通称= |生年=[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]] |生地=[[豊前国]] |没年=[[明治]]10年([[1877年]])9月 |没地=鹿児島 |活動=[[西南戦争]] |組織=[[中津隊]] |藩=[[中津藩]] |廟=[[中津市]][[安全寺]]<br />[[南洲墓地]] }} '''増田 宗太郎'''(ますだ そうたろう、[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1849年]][[3月17日]]) - [[明治]]10年([[1877年]])9月)は、[[中津藩]]下士増田久行の嫡男。母は九州[[国学]]の三大家の一人で、[[平田篤胤]]直系の弟子である<ref>[http://rc.moralogy.jp/ronbun/6.html 平田篤胤-渡辺重石丸―増田宋太郎]</ref>[[渡辺重名]]の娘。父は儒学者・[[福沢百助]]の妻のいとこ。[[福沢諭吉]]とは再従兄弟にあたり、家も近くである。幼名は'''久米丸'''。民権結社「共憂社」主宰、[[西南戦争]]における[[中津隊]]々長。 ==略歴== ===生い立ち=== [[嘉永]]2年[[2月23日]]、[[中津藩]]下士・増田久行の嫡男として生まれる。 {{和暦|1857}}、[[渡辺重名]]の孫で、[[渡辺重石丸]](鉄次郎)が始めた[[国学]]塾「道生館」に入門し、[[平田篤胤]]派国学を学び、[[尊王攘夷]]思想に開眼する。{{和暦|1863}}の[[第1次長州征伐]]の中津藩出兵では選考に洩れ、慶応2年(1866年)の[[第2次長州征伐]]に際しては、[[攘夷]]派長州を討つべきではないとして征長中止を建言しようとしたが、師・重石丸に諫止されて果たせなかった<ref>[http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 師重石丸に諫止されて果たせなかった。]</ref>。 慶応4年([[1868年]])に長州藩脱徒の兵と[[佐田秀]]らの草莽隊が、御許山に[[勤王義挙]]の旗を立て、[[花山院]]を擁して[[西国郡代]]を討ち、九州に維新回天の業を進めようとしたものである。[[中津城]]下は震動し、宋太郎またもや参加しようとしたが、重石丸に阻止される。直後に[[長州藩]]兵によって草莽隊は鎮圧された。[[明治新新府]]への恭順を決定した中津藩は出兵し、やがて[[戊辰戦争]]に従軍して[[奥羽]]にまで転戦したが、この時も宋太郎の従軍は[[京都]]までであり、帰郷を命じられた。そしてこの時に、宋太郎は[[維新政府]]の[[攘夷]]実行の意志に幻滅し、疑念を抱き始める<ref>家永三郎 『近代日本の争点』 每日新聞社 1967年 P389</ref>。 ===維新後=== {{和暦|1869}}中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた[[薩長]]が[[明治天皇]]を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して[[京都還幸]]の計を進めた。宋太郎もまた、[[岩田茂穂]]ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は[[柳田清雄]]に諫止されて果たせず。明治3年([[1870年]])には上京して政府の[[文明開化]]・[[開国和親]]の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の[[文明開化]]のリーダーで、いとこの[[福沢諭吉]]への不満を募らせた宋太郎は、同志・[[朝吹英二]]に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年(1870年)に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の[[慶應義塾]]に入学した<ref>『慶應義塾入社帳』第一巻</ref>。明治4年([[1871年]])に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、[[闇無浜神社]]の[[祀官]]となる。直後に[[小幡篤次郎]]と福澤諭吉の旧藩校・[[進脩館]]と統合<ref>第36番中学校</ref>。次いで[[島津久光]]への討薩計画を立てて上京したが、明治6年([[1873年]])に同志と共に[[久留米]]で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。 ===士族反乱=== 許されて帰郷した明治7年([[1874年]])に[[佐賀の乱]]が勃発すると、宋太郎は中津士族を統合して数百名を集めて部隊の編成に成功し、[[江藤新平]]に合流しようと[[小倉県]]の命で佐賀に赴いたが、増田らが到着したとき乱はすでに鎮圧されていた。次いで[[征台の役]]が始まると、長崎、鹿児島に情勢をさぐり、帰郷して中津に[[自由民権運動]]の結社「共憂社」を設立した。[[板垣退助]]が[[林有造]]を送って祝したともいわれる。下級士族の没落が進行する中、明治9年([[1876年]])2月、宋太郎は[[福澤諭吉]]を慕って上京し、2度目の[[慶應義塾]]に入った。慶應義塾で学んだのち、[[村上田長]]によって、『[[田舎新聞]]』が創刊されると、編集長を務める<ref>[http://www.h4.dion.ne.jp/~yoshisan/page014.html 村上田長(1839~1906)]</ref>。 [[萩の乱]]、[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]の報を聞くと、明治10年([[1877年]])1月に、増田は鹿児島に[[桐野利秋]]を訪ね、京阪にある[[川村矯一郎]]ら同志からの土佐蹶起の報を待ち続けたが、ついに3月31日、同志らと共に 蜂起した。[[中津支庁]]襲撃、[[大分県庁]]襲撃、[[小国]]を通って熊本の[[西郷軍]]に合流、以後各地に転戦して[[鹿児島城]]山まで[[中津隊]]は勇名を謳われた。[[米蔵]](現・[[鹿児島市役所]]付近)の銃撃戦で戦死した<ref>[http://bakusiken.cool.ne.jp/siseki/kagosima/nansyu.html 明治10年9月4日米蔵(現鹿児島市役所付近)銃撃戦で戦死。]</ref> [[黒龍会]]編集の『西南記伝』は宋太郎の最後を戦死と伝え、『[[郵便報知新聞]]』記者・[[犬養毅]]は捕われて斬首されたと伝えている。 ==著書== *『増田宋太郎遺稿集』([[漢詩]]集、明治16年) *『増田宋太郎歌集』 ==関連項目== *[[中津市指定文化財一覧]] ==エピソード== * [[司馬遼太郎]]も著書『[[翔ぶが如く]]』で引用した「'''1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある'''」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。 * [[太平洋戦争]]中には[[蘭学者]]の福沢の評価よりも暗殺しようとした増田の評価が高まり、一時は生家跡地に[[神社]](増田神社)まで建立され、[[祭神]]となったという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。 ==脚注== <references /> ==参考文献== * [[司馬遼太郎]] 『翔ぶが如く』 * [[熊谷克己]] 『増田宋太郎伝』 二豐新聞社 1913年 * 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843 * [[江藤淳]]『南洲残影』文藝春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2 * [http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 増田宋太郎(ますだそうたろう)] 世ヲ憤リ身ヲ憂イテ涙雨ノ如シ ==外部リンク== *[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-seitannoti.html 増田宋太郎生誕の地] *[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-bosho.html 増田宋太郎の墓] *[http://www.keiten-aijin.com/masudasoutarou.htm 増田 宗太郎/敬天愛人フォーラム21] {{DEFAULTSORT:ますた そうたろう}} [[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]] [[Category:幕末中津藩の人物]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:国学者]] [[Category:士族反乱]] [[Category:慶應義塾の塾生]] [[Category:慶應義塾の教員]] [[Category:西南戦争のジャーナリスト]] [[Category:自由民権運動の人物]] [[Category:西南戦争で戦死した人物]] [[Category:新聞編集者]] [[Category:日本の神 (人物神)]] [[Category:日本の漢詩人]] [[Category:暗殺未遂犯]] [[Category:1849年生]] [[Category:1877年没]]